客観的であること
今日は久しぶりに涼しい気分。いや、33度なんだけど。
陽射しも、少しだけ射す力が弱いような気がする。
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日本人へ リーダー篇 #文春新書#
塩野七生
最近カラオケに行ったときに、採点機能をつけてみたら自分の声が録音されていたので、初めて自分で自分の歌声を聴いた。まずは、こんなに鼻声で歌っているなんて知らなくて、かなり恥ずかしかった。
細かいところでも、「なんとなくうまく歌えているのではないか、ごまかせていたのではないか」と思っていたところも、録音だと実は駄目だったことが問答無用でわかってしまって、かなり辛い。皆さんが褒めてくださるから、もう少し上手いのかなって調子に乗っていたら(それがそもそも駄目なんだよ…)、全然駄目じゃん、とか。
で、思ったのだ。
「客観的」ということのむずかしさを。
カラオケなら(もうしないけど)録音してそれをもう一度自分で聴けば、一応は客観的に歌声の質を判断することができる。でも、自分が訳した文章をもう一度見直すときには、少なくとも今の自分はそこまで客観的な目を持てていない。なぜそれが分かるのかといえば、数日後にもう少し落ち着いて訳文を見ると、自分でも気づく不自然な文章に出会ってしまうからだ。数日でそんなにできるようになるわけがないから、それは単に最初が客観的じゃなかっただけなんだよね。
少なくとも、絶対に客観的になれるのは、「量」に対してだけ。「質」については、次のユリウス・カエサルの言葉を思い出して、「だから今の自分はすべてを見通せていないはず」くらいの気持ちになって厳しく見ることしかできないのだろう。
人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。
多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない。(ユリウス・カエサル)
その厳しい目を続けることで、少しずつ客観性が持てたら、いいなあ。
そんなことを、この本を読みながら考えたのでした…。
とにかく、まずは量(受け売り)。今日もこれから頑張ろう。
やる気のおともに。
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