創作

2011年5月 7日 (土)

【小説】朝日が昇るところ (13)

「この日――覚えています。歌手になるのを諦めた日」
 女性はもう一度写真を見つめた。
「耳が聴こえなくなって、お医者様からも止められて、仕方なく夢を諦めたんです。最後に河原で歌おうと思いました。――でも、歌っていても辛かった。悲しくて、悲しくて、仕方なかった」
 彼女は一言ずつ、かみしめるように話し続ける。自分に向けて話しているようにも見えた。
「あの後も、ずっと後悔していました。私から歌をなくしたら何もなかったのにって」
 僕は女性を見つめ続けた。その目は、少しうるんでいるようだった。
「でも」女性は不意に僕を見る。
「でも、ずっと忘れていました。このときは、朝日が差していたんですね」
 そして、ふっと笑顔になる。
「この写真のおかげで、思い出しました。この時の自分がどれだけ歌を愛していたのか。こんな時があってやっぱり私は幸せだったって、きっと将来、子供にも誇りをもって伝えられる。心から感謝します。ありがとうございます」
 僕の中で、何かが弾けた。
 弾けたものはおそらく、今まで自分が探してきたもの。朝日にも負けないくらい、輝いている存在。
 もう一度会わなければ気づかなかった。本当に輝いているものが何なのか。
「こちらこそ、ありがとうございます」
 ようやく、十年越しのお礼を言えた。深く頭を下げる。なぜか涙が出そうだった。
 僕は、彼女を入り口で見送った。ふと思い出す。
「そういえば、お子さんがいらっしゃるんですか?」
 女性は照れたように微笑んだ。
「ええ。あそこで待ってくれているんです」
 彼女が指した方には男性が立っていて、その胸には幼い女の子が抱かれている。女の子は、心細そうにこちらを見つめていた。彼女は僕にお辞儀をして、小走りに二人の方へと向かった。その姿はあの時とは違っていたけれど、たしかに輝いて見えた。
 ルミに会いたい。急に心からそう思った。手遅れかもしれないとか、自分がどうすべきかなんてどうでもいい。ただ会いたいだけなんだ。会って、ルミの写真を撮ろう。そう思った。
 僕はもう二度と、河原に行くことはない。

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(完)

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予定よりもずいぶん引っ張ってしまった…。
お付き合いくださってありがとうございました。

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2011年5月 2日 (月)

【小説】朝日が昇るところ (12)

 ふと、写真の前に立っている女性に目を移す。年は三〇代半ばだろうか。飾り気のない服装に、ひっつめた髪。そのまま家に帰って夕食を作り始めそうな雰囲気だ。これまで個展を見に来てくれた人とはどこか異なっていて、気にかかる。一歩近づくと女性の顔が見えた。女性は、――涙を流していた。
「あ……」
 思わず発した声に、女性は驚いて振り返る。
「すみません」女性は急いで鞄からハンカチを取り出す。謝られてもどう返していいのか分からない。しばらく気まずい沈黙が流れる。
「もしかして、あなたが市橋守さんですか?」
 まだハンカチを目に当てながら、女性は言う。うなずくと、ぱっと晴れやかな顔になった。
「よかった、お会いできて。私、お礼が言いたくてここに来たんです」
「……は?」
 意味が分からない。僕があまりにきょとんとした顔をしていたのだろう。女性は慌てたように言葉をつづけた。
「突然ごめんなさい。新聞でこの写真を見てびっくりして……。勘違いかもしれないとは思ったんですけど、直接見に来なきゃと思ったら、もう、いてもたってもいられなくて……」
 そこまで一気に話すと、彼女は写真の方をふり返った。愛おしそうな表情で。
 その表情を見た瞬間、雷に打たれたような気がした。彼女と同じように写真を見つめる。そこには、歌う女性の姿。この女性は今頃、三〇代になっているはず――。
 僕は恐る恐る目の前の女性に視線を戻した。彼女も僕を見つめている。その瞳は「そうよ」と言っているようだった。
 力が抜けていく。
「……本当に?」
 会えるなんて思っていなかった。ここに写真を展示したのはあくまでも自分のためで、この写真を見た本人が見に来るなんて、不思議なことにまったく想像していなかった。毎朝探していたつもりだったけれど、本当はもう諦めていたのだと気がついた。
 しかし、目の前にいる女性からはあのときの輝きを少しも見つけられなかった。彼女は、全く普通の女性だった。写真の女性よりも髪は短い。写真の女性よりも少しふっくらしている。少し猫背にもなったみたいだ。同一人物だなんて思えないくらい、二人は違って見えた。
 でも僕は、そのことにまったく落胆していなかった。なぜだかわからないが、それでいい、と感じたのだ。

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2011年4月25日 (月)

【小説】朝日が昇るところ (11)

 気持ちを振り払って、僕は立ち上がった。もう一度会場を回ってみようと思った。
 誰もいないギャラリーの中で、写真を一枚ずつ見ながら進んでいく。一枚目は夜の写真。環状線を走るたくさんの車の光。あのときは、オレンジ色の光が夜の空気に反射していろいろな方向に散らばっていた。その非現実的な風景を残したいと思ったのだ。その隣は、町中に咲く一本の桜の写真。花見客がたくさんいる豪華な桜並木から一本裏道に入ったら、桜が一本だけぽつりと立っていた。誰も見ていなくても同じように花を目一杯咲かせるその様子が切なくて、カメラを向けたのだ。
 ――風景写真がすばらしいと褒められたって、嬉しくはない。風景を撮っているのは成り行きだし、別に心から撮りたい被写体というわけではない。
 ずっとそう思っていた。いや、最初は本当にそうだった。でも、そう思いつつも、カメラを向ける瞬間の自分は、それが人物か風景かなんて考えず、ただ目の前のものに惹きつけられていたはずだ。最初に崇高な動機なんてなくても、自分は確かにこの四年間駆け抜けてきた。自分の作ってきたものなんて振り返ったこともなかったけれど、今この場所にいると、感じる。積み上げてきたものは確かにあるのだと。
 ルミの顔が浮かんだ。彼女とはあれから会っていない。電話さえしていない。手遅れになってしまうと焦る気持ちもあるが、何を話せばいいのか分からないのだ。
 あれからずっと考えていた。これからどうすべきなのか。ルミが望むように結婚すべきなのか、今の付き合いを続けるべきなのか、それとも別れるべきなのか。でも、どれだけ考えても分からない。自分で分かっている気持ちはひとつだけだ。このまま終わってしまうのかもしれないと考えると、胸が締め付けられる。
 「彼女」の写真のある、ギャラリーの突き当たりに向かう。誰もいないと思っていたが、いつの間にか女性が写真を眺めていた。邪魔にならないように少し離れたところに立って写真を見つめる。
 あの日、なぜ子供たちに彼女と同じものを感じたのだろうか。今まで一〇年以上探してきた「輝いている存在」。なぜあの時、突然それが現れたのだろうか。
 僕は今まで、本当は何を探していたのだろうか。

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ようやく再開…。あとわずかですがお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

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2011年4月12日 (火)

ねこをおもう

ねこをおもう

ふと、あなたのことを想う
いつもじゃないけれど
空を見上げたとき
綺麗な花を見つけたとき
一緒に見られたらいいのにって思う
いつもじゃないけれど

自由に歩く姿が好き
誰にもこびない姿が好き
私が涙を隠して笑っているときに
気づかないふりをしてそばにいてくれるところが好き

ただ思うのは
そのまま自由に歩いていてほしい
雨の日は見えないように傘をさそう
風の日は見えないように盾になろう
洪水が来たら舟になろう
気づかれないように

一緒に暮らしたいわけじゃない
いつも傍にいたいわけじゃない
ただ
あなたが寒くて怖くて震えているときは
抱きしめられたらいいのにって思う
いつもじゃないけれど

ふと、あなたのことを想う
いつもじゃないけれど

***

突然ですが(笑)
夕べ熱で朦朧としながら、気づいたら手が勝手にこんな詩(?)を書いていました。
面白いので記録として残しておこうと思います。
お目汚し、失礼いたしました。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

【私信】
日が変わって4月13日は妹の誕生日。
Happy birthday♪
頼りない姉で迷惑もいっぱいかけてきたけれど、これから少しはお姉ちゃんらしくなれるように頑張るから、よろしくね。

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これからの人生が花開くものになりますように。

2011年3月12日 (土)

【小説】朝日が昇るところ (10)

引き続き、心配な状況が続いています。
何もできないことが本当にもどかしいのですが、だからと言って焦っても、自分にできないことはできないんですよね。

自衛隊は今この時も人命を救ってくれている。
交通機関、電気会社、ガス会社、水道会社などの職員は、ライフライン確保のために尽力してくれている。
企業は物資を送っている。
何よりも、被災地の方々はこんなときにも冷静さを失わずに生きている。

だから今、日本中の人たちが彼らのためにできることを探している。
歌手は歌で、
役者は演技で、
落語家は噺で、
書家は書で、
画家は絵で、
スポーツ選手はスポーツで、
一人一人が勇気づけるために行動している。皆が支え合っている。一人じゃない。そう伝え合える私たちであることを、本当に誇らしく思います。

何の影響力もないけれど、それでも私にできることは文章で伝えることだけ。書くことだけ。
だから今日もブログを更新します。

被災地の皆様、きっと自覚している以上に疲れがたまっていることと思います。まずは体の疲れが取れるように、意識して横になって暖かくなさってください。
皆様の無事と一刻も早い復旧を、心から祈っています。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

***
 昼食を終えて「仲ギャラリー」に戻ると武川に手招きされた。「お前のファンっていう子がずっと待っていたんだよ」と耳打ちされる。奥をのぞくと、まだ高校生らしい女の子が椅子に姿勢よく腰かけていた。「お前のサインが欲しいんだとさ」
 個展が始まってから一週間。驚くことに僕には「ファン」が、しかも何十人もいることが分かった。声をかけられたのも初めてではないのだが、いまだにこの状況には慣れない。言われるがままにサインをして彼女を見送ると、それだけで疲れてしまって僕は椅子に座り込んだ。ふとサイドテーブルに置かれた新聞が目に入る。個展初日の新聞だ。この日、かなり紙面を割いて特集が組まれたのである。記事の効果もあって、これまでのところ客入りは上々だった。
≪市橋守、初個展 人物写真も公開≫
 大きな見出しと紹介記事、それに今回展示している写真も何点か掲載されている。「彼女」の写真も。僕は他人事のような気持ちで記事を眺める。すべてが夢のようだった。
「個展も明日までだな」
 武川の声で我に返る。振り向くと、武川は会場の写真を眺めていた。その笑い皺を見ながら、僕はいつの間にかつぶやいていた。
「俺って、結構有名だったのかな」
 武川は吹き出した。
「そりゃ、これまで弊社がじっくり育ててきた市橋先生ですからね」
 冗談めかしてから「気に入らないの?」と尋ねる。
「いや、もちろん嬉しいんだけど」僕は考えながら言葉を継ぎ足す。「ただ、なんていうのかな、変な感じがして。俺はただ写真を撮っただけだし」
「たしかに、普段読者に会うことってないからな。今回がいい機会だったんじゃないの」
 武川は僕の前の椅子に腰かけた。
「まじめな話、お前は自分で思っているよりも有名だよ。思っているよりもずっと恵まれているし、成功もしている」
 僕は黙ったまま武川の言葉をかみしめた。「仕事なら、十分成功しているじゃない」。ルミの言葉が不意によみがえる。あの時は否定したい気持ちだった。でも今は、彼女の言う通りだと分かる。どうしてこれまで気づけなかったのか、その理由にもようやく思い当たった。僕は今まで、面倒で責任が必要なことをすべて武川に押し付けてきた。でも、責任を人に負わせていれば、見返りもダイレクトには得られない。今ここから会場を眺めていても、まだどこか現実感が湧かないのは、そのせいなのだろう。
 不安。その出処もここにあるのかもしれない。何かを得ようと思ったら、自分の手と足を使わなければいけないんだ。怖がらずに。
 僕の考えを見抜いたかのように、武川は続けた。
「だから怖がる必要はないさ。周りも、お前が思っているほど嫌な奴ばかりじゃない。誰もお前を責めたがっているわけじゃない。手助けする気持ちのある人はちゃんといる。お前が自分から向かってさえいけばな」
 そして照れたように「やっぱりまじめな話は柄じゃないな」と立ち上がり、そのまま一人で出かけてしまった。僕にお礼を言う隙も与えないまま。

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2011年3月 5日 (土)

【小説】朝日が昇るところ (9)

 明け方にはすっかり酔っ払っていた。外はまだ薄暗い。覚束ない足取りで、暗い道を進んだ。自分がどこに向かっているかも考えずに。
 気づいたのは、しばらく歩いてからだった。このまま行くといつもの河原だ。こんな日にさえもいつもの習慣が出てしまう自分に、苦笑するしかない。どちらにしても他に行くあてもないので、そのまま進むことにした。途中でカメラを持っていないことに気づいたけれど、それもどうでもいいと思った。どうせ今日もいるはずがないのだから。
 ところが、河原に近づくと、微かな歌声が耳をかすめた。幻聴? いや、耳を澄ませてもたしかに聴こえる。まさか。心臓が高鳴った。もつれてうまく動かない足で河原まで走り始めた。だんだん声が大きくなる。角を曲がると、視界が開けて河原が見渡せた。見回して声の源を探す。
 そこにいたのは子供たちだった。薄明の中、一〇人くらいの小学生が合唱の練習をしている。
 ……そりゃそうだよな。
 力が抜けて近くの石に腰を下ろした。無理に走ったせいで頭がくらくらする。しばらく座っていることにした。
 子供たちは、僕に気づく様子もなく練習を続ける。まだ薄暗いので、姿ははっきりと見えない。同じフレーズを繰り返し歌っているようだ。時々「ちがう」とつぶやく声が聞こえる。どこに引っかかっているのだろうか。最初はぼんやり眺めているだけだったが、歌声が持つ一所懸命な響きに、次第に引き込まれていった。知らず知らずのうちにこぶしを固く握りしめる。頑張れ。
 三〇分ほどそうしていただろうか。突然、東から光の線が差し込んだ。一本の線があっという間に広がって淡い光になる。川の水に、砂の一粒一粒に、太陽の光が反射する。辺りは柔らかい山吹色に包まれていく。
 僕は、ハッとして立ち上がった。子供たちが、輝いている。
 山吹色の光に負けないくらい、子供たちは輝きを放っていた。僕は、指でファインダーを作って、彼らをのぞき込んだ。
 あの時と同じだ。
 カメラを持っていなかったのが悔しかったけれど、それよりもようやく「輝き」に出会えた喜びのほうが大きくて、僕は拍手をした。子供たちはびっくりして振り向いたが、構わずに心から拍手を送り続けた。

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2011年2月24日 (木)

【小説】朝日が昇るところ (8)

「……分からない」
 ようやくそう絞り出した僕をしばらく見つめると、ルミは顔を歪めた。
「彼女のせいなのね」
 声は聞いたことがないくらい暗いものだった。僕はうんざりしてきた。どうしてルミが彼女にこだわるのか理解できなかった。
「違うよ」
「違わない」
「なんでだよ。関係ないって言っているだろ。名前も知らない子なんだよ」
 苛ついてそう返した僕を、ルミは厳しく睨んだ。
「そんなこと関係ないわよ。あなたが他に一枚でも人物写真撮ったことあった? 私の写真なんて一度だって撮ったことないじゃない。あんな綺麗な写真が撮れるくせに。名前も知らない? そんなの、もっとひどいわ。名前も知らない子のことをずっと想いつづけていたっていうことでしょ。私のこと、何だと思っていたのよ」
 最後は悲鳴に近かった。ルミはそのままテーブルに突っ伏した。
 僕はどうしていいのか分からなかった。混乱していた。彼女は、他のどの被写体とも比較できない存在だ。いや、比較しようと思ったことさえなかった。だから僕は、彼女とルミを同列に並べたことなんてなかったのだ。ルミがこのことで苦しむなんて、思いつきもしなかった。
「ルミ……」
 肩に手を置くと、ルミはゆっくりと顔を上げた。頬が濡れている。
「ごめんなさい。守、今日は帰って。お願い」
 僕は、本当はどうすればよかったのだろう。情けなくも言われるがままに、僕はルミの家を出た。
 家に帰る気にはなれなかった。とぼとぼ歩いているうちに見つけた居酒屋に入った。いくら飲んでも酔えなかった。しばらく飲んでから、店を変えてさらに飲み続けた。
 ルミの悲鳴が頭にこびりついて離れない。あんな風に取り乱したところも、泣き顔も初めて見た。ルミはいつも冷静で、僕を責めたことなどなく、僕はずっと何も考えずにそれに甘えてきたのかもしれないと、初めて気づいた。
 でも、と僕は自分に言い訳する。なぜルミは何も言ってくれなかったのだろう。ルミがいつも冷静だから、きっと僕は何も気づけなかったんだ。不満があるなら、話してくれればよかったんだ。だって僕らは恋人なんだから。不満も不安もすべてぶつけてくれればよかったんだ。
 言い訳が一通り終わると、脳裏に再び彼女の涙が浮かび、僕はまた自己嫌悪に陥る。それをごまかすためにまた酒をあおった。
 そして、ルミに言われるまで気づきもしなかったことを考え始めた。僕は、あの時の女性を愛しているのだろうか。彼女以上に誰も愛せないから、結婚する決心がつかないのだろうか。
 愛。しかし、なぜかその言葉は宙に浮いた。あの女性を愛している。僕は心の中で繰り返しつぶやく。何度繰り返しても、その言葉はしっくりこなかった。

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2011年2月19日 (土)

【小説】朝日が昇るところ (7)

****

 僕は体を投げ出した。赤いカウチソファがぎしりと音を立てる。ルミの部屋は、自己主張の強いはっきりした色で占められている。やる気が出てくるときもあれば、妙に落ち着かなくなるときもある。今日は後者だった。
 ルミはキッチンからシャンパンを持ってきて、僕の隣に腰を下ろす。そして微笑んだ。
「改めて、個展おめでとう」
「始まったばかりなんだから、まだめでたくなるかどうかは分からないよ」
 僕はそっけなく返した。疲れていたのだ。
 早いもので、もう今日は個展の初日だった。面倒なことの大部分は武川に任せたものの、さすがに挨拶は自分でするしかない。大勢の知らない人の前に立ってもっともらしいことを言うだけで、もうすっかりくたくただった。個展なんてやらなければよかった、と大げさにも後悔していた。
 そんな状態だったから、僕はルミの様子にまったく気を配っていなかった。後から思えば今日の彼女はずっと沈んだ表情をしていたのだが、そんなことにも気づいていなかった。
 シャンパンを飲み終わると、ルミは僕の顔を横から見つめた。
「ねえ、守、訊きたいことがあるんだけど」
 ルミの声は明るいままだった。
「あの写真の女の人、誰?」
「え……」
 不意の質問に意味が分からず、頭が真っ白になってしまう。
「今日個展に飾ってあった写真。初めて見た」
 そう補足されてようやく理解する。僕はぼんやり宙を見つめたまま「知らない人」と馬鹿みたいに答えていた。
「私は知る必要がないって意味?」
 ルミの言葉に、僕はぎょっとしてようやくルミの顔を見返した。そうじゃない。僕も知らない人なんだ。そう言おうとして、でもそれは言葉にならなかった。ルミの顔はとっくに笑っていなかった。
「あの人がいるから、守は私と結婚してくれないの?」
 僕は言葉を失った。考えたこともない方向に話が進んでいる。
「そうじゃない…」
 僕は切れ切れに言葉を発した。
「そうじゃ、ないんだ。本当に、あの子は関係ないよ。名前も知らない子なんだから。ただ、まだ、自信がないんだ」
「何に対する自信?」
 ルミは僕をまっすぐ見据えた。
「仕事なら、十分成功しているじゃない。個展まで開けたわ。それとも、私たちの関係に対してなの? 私は、守と結婚したいと思って三年間付き合ってきたつもりよ。私は何も不安に思っていない。守は、一体何が不安なの?」
 何が不安なのか――自分でも分からない。ただ、今いる場所は本当の場所じゃないという思いが漠然とあるだけだ。乗り越えなければならないことを回避してしまっているような、すべきことを置いてきてしまっているような思い。

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2011年2月10日 (木)

【小説】朝日が昇るところ (6)

***

 打ち合わせのために仲ギャラリーに着くと、仲本人が笑顔で出迎えてくれた。
「わざわざ申し訳ありません。外は寒かったでしょう。コーヒーか何か飲まれますか?」
「いえ、お構いなく。あの、見せていただいてもいいでしょうか?」
 例によって堅苦しい挨拶が苦手な僕は、ひどく不躾に用件から入ったのだが、仲は気に障った様子も見せずギャラリーを案内してくれた。
 決して広くはないギャラリーだ。壁紙はクリーム色で、天井には照明機器が控えめに配置されている。どこにでもあるギャラリーのようだが、手入れが行き届いていて持ち主の愛情が伝わってくるような気がした。
「……いいギャラリーですね」
 ぽつりとつぶやいてから、失礼な発言だったかと気がついた。僕なんかに言われては嫌味だったかもしれない。しかし、慌てて振り返ると、仲は満面の笑みを浮かべていた。
「そう言ってもらえるとね」と仲は部屋を見回した。
「この商売やってて良かったって思うんですよ。このギャラリーは、君のような人たちに使ってもらいたくて、作ったんです」
『仲さんはこの世界では相当ましな方だぞ。名の売れていないアーティスト側の要求にも耳を傾けてくれるし』という武川の言葉がよみがえった。そうか、と心の中で返事する。武川さん、本当にそうだったみたいだ。
 そんな僕に気づいた様子もなく、仲はしばらく部屋を見つめてから、「ゆっくり見ていってくださいね」と出て行った。
 僕は、ゆっくりと部屋を一周した。不思議にイメージが湧いてくる。この場所にはこんな写真を、あの場所には……と頭の中で次々に写真は決定していった。
 一番奥に着いたとき、一瞬そこにライトが当たっているのかと思った。そこだけ雰囲気が違うのだ。太陽の光さえ差し込まないギャラリーの中で、その感覚はおそらく錯覚なのだろう。なのに、どれだけ見つめ続けてもその印象は消えなかった。
 こういう空間を仲はわざと作ったのだろうか。それとも、偶然できてしまったのだろうか。僕は、ずいぶん長い間そこに立ちつくしていた。この雰囲気には、覚えがあった。もう、何年も見続けている朝の景色。
 見終わって仲のもとに戻ったときには、僕の心は決まっていた。僕はずっとこうしたかったのかもしれない。
「実は」と僕は切り出した。「一枚だけ人物写真を展示したいんです」

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2011年2月 4日 (金)

【小説】朝日が昇るところ (5)

 すごい音に、僕はびくっと目覚めた。目を開くと、眩しい光が辺りを照らしていた。
 音だと思ったのは、歌声だった。どこから聞こえてくるのかと体を起こそうとするが、節々が痛くて思うように動かない。顔をしかめながらなんとか起き上がって、やっと僕は声の源を見つけた。
 その時の衝撃を、僕はおそらく一生忘れない。
 歌っていたのは、女性だった。たぶん二〇歳くらいだったろう。背中までかかる長い髪、Tシャツとジーパンというシンプルな服装で、川に向かって歌っていた。いや、むしろ叫んでいたと言った方が近いかもしれない。
 僕には歌の評価なんてできない。それでも、その歌には圧倒された。たぶん基礎はしっかりしているのだろう。もしかしたら、声楽か何かやっていたのかもしれない。でも、圧倒されたのはそんなところじゃない。彼女の持つ激しい感情が、声から伝わってくるのだ。それが怒りなのか、悲しみなのかも分からないのに、聴いている側まで彼女の感情に共鳴してしまいそうになる。僕にとってそれは初めての経験だった。
 僕のいる場所からは斜め後ろの姿しか見えなかったので、彼女の表情は分からなかった。ところが、もっと見たい、と思った瞬間、たまたま彼女が少し体をずらして、僕に横顔を見せたのだ。
 彼女は、涙を流していた。
 次々に流れる涙で頬を濡らしながら、彼女は泣き崩れることもなくひたすら歌い続けていた。朝日が彼女に注いで、輪郭を山吹色にぼかしている。
 僕は、いつの間にか彼女にカメラを向けていた。
 なぜそんなことをしたのか、自分でも分からない。カメラ、と言ってもインスタントカメラだ。たまたま鞄の中に入れっぱなしになっていたカメラだった。そのカメラを無意識のまま構えて、僕はファインダー越しに改めて彼女を見た。
 なんて、綺麗なんだろう。
 気がつくと、僕はシャッターを押していた。押した瞬間、我に返る。悪いことをしてしまった気がして、僕はその場から逃げ出した。彼女の歌声が聞こえるはずのない距離まで遠ざかった後も、その声はしばらくの間耳の奥に残っていた。
 できあがった写真を見たとき、僕の中で何かが形になった。また、こんな写真を撮りたい。こんな風に輝いている人物をまた撮りたい。
 単純な動機だ。でも、僕は真剣だった。親を強引に説得して、写真の専門学校に入った。技術を身に付けながら、あの時と同じような輝くものを必死に探した。
 一年たって、僕は絶望した。そんなものはどこにもなかったのだ。何もかもが、ファインダーを通してみると平凡に見えてしまう。あの時のように、輝いたりはしない。あの時のようには……。
 ただ彼女をもう一度撮りたかっただけなんだと、その時初めて気づいた。手がかりは何もない。あの日、日の出の時間に歌っていた、ということ以外は。
 それだけを頼りに、僕はあの河原に足を向けた。彼女はいなかった。次の日も、僕はそうした。次の日も、その次の日も……。
 常軌を逸しているかもしれない。でも、僕は諦めきれないのだ。彼女にもう一度でいいから、会いたい。会ってどうしたいのか、何を話したいのかは分からないけれど。ただ、そうしなければ、僕はここから身動きできないままのような気がする。

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いきなり私信…
Happy birthday, Dad!
(追記…書いてから気づいたんですが、実父へのメッセージですので^^;)

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